HOME

図書新聞経済時評1998.7.

 

近代世界システム論の構想力

――ウォーラーステインをめぐって

 

橋本努

 

 雑誌『大航海』四月号と『情況』六月号の特集はどちらもウォーラーステイン。関心の中心は、新左翼思想の活路をはたしてウォーラーステインに求めることができるのか、という点にあるようだ。

 川北稔氏によれば、日本における戦後の歴史学は、「アジア的停滞」からの脱出の手段をマルクスのパースペクティヴのなかに模索してきた。しかしそのような試みが行き詰まった現在、歴史学は長期的な見通しを与えることができず、知的インパクトを失いつつある。そうしたなかでウォーラーステインの世界システム論は、近・現代史を解釈するための最も可能性に富んだ理論であるという(「近代世界システムとは何か」『大航海』)。ではその可能性はどこにあるのだろうか。

 ウォーラーステインのみるところ、アメリカのヘゲモニーはソビエトの崩壊とともに衰退したのであり、さらに言えば、過去五〇〇年間続いた近代世界システムの全体が衰弱してきている。そこでわれわれは新しい社会システムに移行すべく、現在の社会体制に対する「反システム運動」を企てるべきだという。反システム運動とは、階級闘争、エコロジー運動、反原発運動などの総称である。サダム・フセインの謀略もこれに含まれるという。しかし重要なのはやはり労働運動である。彼によれば、国家の弱体化とともに多国籍企業が弱体化し、これによって無限の資本蓄積という資本主義の土台が崩れる。他方では労働力の移動性が減少し、労働者の団体交渉力が世界規模で拡大する(坂口緑訳「二十世紀の地政学」『大航海』)。こうして万国の労働者が団結する可能性が生まれるというわけだ。

 この壮大な歴史物語はしかし、どれほど真剣に検討すべきなのか。金子勝氏によれば、「ウォーラーステインは、ある意味ではどうでもよい存在である」。彼の近未来社会に対する予言は、たちの悪い占い師のそれに近い。彼の議論は、予測する観察者の視点にとどまるかぎり、左翼知識人にとって安全な知的シェルターを提供するにすぎない。また、彼が描くユートピアは恐ろしく貧困である。それはせいぜいリベラリズムではないという否定の世界である。(「アフター・ウォーラーステイン」『大航海』、「近未来社会への構想力」『情況』)

 ウォーラーステインの未来構想力に魅力がないとすれば、彼の現状認識、すなわち「アフター・リベラリズム」という認識はどうか。彼のいうリベラリズムとは、国家権力からの自由を中核としながらも、その担い手であるブルジョワ階級がとった諸政策の全体を指している。すなわち、社会改良、福祉国家、混合経済、産業主義である。その典型例は、アメリカの覇権の絶頂期に当たる六〇年代の民主党リベラルであるが、産業主義という点ではソビエトの社会主義もリベラリズムに分類される。このようなリベラリズムが衰退したのは、一つには、国家に対抗するという本来の思想的課題を失ったこと、もう一つには、産業主義と国民国家の結合がもはや限界に達しているという認識にある。

 しかしウォーラーステインは、なぜ八〇年代以降の自由主義、すなわち脱福祉国家型の市場自由主義と対決しないのだろうか。現代の自由主義思想こそ国家に対抗する真正のリベラリズムであり、それはますます勢いを増しているのではないか。ウォーラーステインは、アメリカのヘゲモニーが衰退するという点に注目するあまり、世界経済がグローバル・スタンダードによるアメリカニズムによってますます支配されつつあるという現実を見失っている(佐伯啓思「『リベラリズム以降』に何がくるか」『大航海』)。リベラリズムに関する彼の説明は、「かなり質の悪い粗悪品」である(金子勝、前掲書)。

 ではウォーラーステインのどこに可能性があるのか。ウォーラーステインを発展的に継承するピーター・テイラーの議論は示唆に富む。彼は旧来の産業主義的な社会主義運動とは断絶した「反システム運動」として「環境社会主義」を提示している(山下範久訳「モダニティとムーヴメント」『情況』)。環境社会主義は、はたしてリベラル・デモクラシーを超え出る運動なのか。次にこの点が問われるべきだろう。

 

(経済思想)